(前の記事の続き)昭和50年に岐阜大学医学部へ入学した私は、父親の闘病生活の中家庭教師のアルバイトや大学の勉強に追われて、忙しいながらも充実して思い出多い学生生活を送りました。その間多くの友人や沢山の知人に恵まれて、ある家庭教師の家では3姉妹を上から順番に教えることになり、夕食、夜食を頂いた上にお風呂まで入ってまるで家族同様の親しい付き合いになりました。当時は可愛い女子高生でしたが、私が2年前に開業した時には、お子さんが大学入試を控えて忙しい時期に真っ先にお祝いに駆けつけてくれました。
そんな学生生活の中で4年半の闘病生活の末父親が亡くなりましたが、その最期の場面は今でもはっきりと脳裏に焼きついて30年を経ても消えることはありません。大学卒業後、父親の病気や主治医だった熱血医師の影響もあって岐阜大学第2内科(循環器及び呼吸器内科)へ入局しましたが、研修医として最初に受け持った患者さんが、父親と同じ歳で同じ病気で病態もよく似ていて不思議な運命を感じました。その患者さんが徐々に重症化し呼吸困難のためレスピレーター(人工呼吸器)を装着する頃になると、病院の医局に寝泊りする日が続き私がフラフラになっていると、ご家族から「先生大丈夫ですか?少しは休んで下さい」と逆に心配される始末でしたが、ご家族の気持ちが手に取るように分かって頑張ったものです。
私の体力の限界を知っていたかのように静かに息を引き取られた患者さんの回りで悲しむご家族の姿に以前の自分をオーバーラップさせて、これはきっと天国(or not?)にいる父親が医師としてスタートを切った私へのエールであったに違いないと思いました。(次の記事に続く)
今回は、このコーナーで自分自身のお話をしようと思います。私は医療に携わって25年、美容医療に携わって20年です。私の母方には名古屋大学附属病院の院長になった親類がいますが、それ以外は医療とは無縁の家庭で育ったため、中学時代は外交官に、高校時代は建築家になるのが夢でした。
小さい頃から絵を描くのが好きで、部屋に閉じこもって当時人気だった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「エイトマン」などのマンガの主人公の絵を真似て描いたり、写生大会では地元の町並みや自然の風景画を描いていつも入選し県大会や全国大会まで行っていたので美術にはかなり自信がありました。また母方の祖父は大正時代に東京で本格的に絵画の勉強をした人で、孫の私がその才能を受け継いでいると皆に言われたため、私もすっかりその気になって将来は画家になろうと思ったくらいです。
高校生の時に大阪で開かれた万国博を見に行って、東芝のパビリオンを設計した黒川紀章氏に大変興味を持ちました。現在では知らない人はないくらいに多方面で有名ですが、当時は新進気鋭の愛知県出身の建築家ですでに海外でも活躍されていました。その斬新なデザイン性やアイデアに、高校生だった私は非常に感銘を受け、自分の美術の才能(?)を生かして彼のような建築家になって世界で活躍してみたいと考えるようになりました。
それが医学の道を志すことになった最大の原因は父親の病気でした。当時は現在のようなCT、MRIや気管支ファイバースコープなどの最新の医療機器もなく、日頃から咳や痰が多かった父親は重症の肺気腫と診断され、闘病生活が始まりました。家族の一人が病気になることは大変なことですが、まして一家の主が病に倒れれば精神的経済的負担は大変なものです。しかし私はB型人間で楽観的だったせいか、父親の見舞いに行くたびに主治医の先生とすっかり親しくなって弟のように可愛がってもらいました。
この36歳の呼吸器の先生は、熱血先生の典型のような人でいつも医局が自宅のような生活をしていました。休日に医局に遊びに行くと机の上には医学書や書類などが高く積まれて、机の下には所狭しと貰い物届け物などが置かれている、時にナースが入院患者のカルテを持って指示をもらいに来たり、電話が鳴って外来へ呼ばれたまま戻らないので私が帰ろうとしていると、汗だくになって来て 「残念!DOA(救急車で到着時死亡)が入って救急蘇生したが助からなかった、、」 当時の私はまるでテレビドラマを見ているようでした。凄い世界だなと感じると同時に私もこんな世界で生きてみたい、そして父親のように病気で苦しむ人々やその家族を救って少しでも役に立ちたいと考えるようになりました。今から30年以上前に抱いたこんな気持ちが現在の自分の出発点です。(次の記事に続く)
私は、もう20年近く美容医療に携わっています。クリニックには毎日多くの患者様が来院されますが、日々の診療を通じて色々な方々と出会う中で、数多くの思い出や素晴らしい感動がいつまでも私の心に残っています。
それが私の最も大きな財産であり、私の医療に対する大きな原動力です。
このコーナーでは、そんな思い出の中から少しずつお話しして行きたいと思います。
私の以前からの患者様で、会社を経営されている40代後半の女性がみえます。
その方は、30代で設立された会社のために毎日忙しく働いていて、ふと鏡を見た時に、疲れた自分の顔がどうしても許せないと来院されました。まず、顔のしわにヒアルロン酸を何度か注入されて、その後、頬ミニフェイスリフトを受けられました。その結果に大満足され、後にコメカミリフトを受けられました。
今も時々成長ホルモンを用いたアンチエイジングを受けに来られますが、どう見ても20代後半で、実際より20歳以上若く見えます。外見以上に変わられたのは、その明るく輝く表情ですが、ご本人は性格まで明るくなったと言われています。
やはりどんな女性も「いつまでも若くそして美しく」は永遠のテーマです。
60歳まではこのままで行くと張り切っておられますが、ただ一つ困るのが、いい歳をして独り身の私を案じてか、来院されるたびにお見合いのお話を持って来られることですね。
昭和57年
岐阜大学医学部卒
昭和59年
岐阜大学医学部第2内科(循環器内科)入局
昭和61年~
岐北総合病院、国立岐阜病院循環器科
(心臓カテーテル)
平成元年~
岐阜大学医学部第2内科学講座
(心音・心臓超音波研究班)
平成5年
医学博士号取得
平成7年~平成13年
医療法人友愛会岩砂病院 循環器部長、
副院長などを歴任
昭和63年~
美容外科医療に従事
平成4年~
コムロ美容外科名古屋院院長、
宮崎院院長などを歴任
平成14年~
大阪院院長、医療局長
平成17年
小木曽クリニックを開院