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院長コラム

私の母はモダンガールだった!?

今回は、このコーナーで私の母親のお話をしようと思います。

 

母はもうすぐ85歳になりますが、最近7年間で腰部椎体固定術、右膝人工関節置換術、大腸手術、視床脳梗塞など、全身麻酔の手術を計4回、入院7回とまさに満身創痍ですが、記憶力と口は幸い私よりも遥かに達者で、今でも最新の携帯で絵文字を使ってメールを送って来ます。内容は私がこの歳になってもまだまだ世の中のことを知らない(?)と愚息を心配するメールです。本当に何歳になっても親とは有難いものです。

 

母は大正13年生まれで、いわゆる戦前、戦後の激動の時代を生きて来た一人です。岐阜県瑞浪市の田舎で代々続く地主の家に四姉妹の末子として生まれました。私は子供の頃から母親の実家へ遊びに行くのが楽しみでしたが、そこでは祖母が私を大変に可愛がってくれて色々な話を聞かせてくれました。実家は終戦後の農地改革で田畑を大分没収されましたが、まだ広い土地や山林が残り、築100年以上の大きな家の中には一体いくつの部屋があるのかよく分からない程でした。裏庭には蔵があり、裏山には明治か大正時代に山を掘って洞穴で作った年中一定温度を保てる大きな保存庫まであり、子供心ながらにこの家の重厚な伝統に感心したものでした。

 

祖母の話では、母は小さい頃から筆習字や文章が飛び抜けて上手く提出物はいつも一番に出していたとのことでしたが、残念ながら私にはそのDNAが遺伝しなかったのか、それとも父親に似たのか、、、いつもギリギリまでゆっくりとして提出間際になってから大慌てで始めてどうにか最後で間に合わせる私の性格を、母はつけた名前のせいだと今でも嘆いています。この癖はその後もずっと矯正されることなく、医師国家試験や学位論文提出の時も、そして今こうして雑誌社からせかされながらも締め切り間際になって必死で書いている現在まで殆ど変わっていません。

 

母は多治見高等女学校を卒業すると周りが花嫁修業を勧める中を、昭和初期にはモダンで憧れの的だった(=超イケテル?)ファッションデザイナーを夢見て、何と一人で東京へ行ったそうです。

 

昭和初期の当時は、現在と違って交通も不便で田舎は都会から遥かに遠く、若い娘が東京で一人暮しするなどとんでもないと母の東京行きは親戚中の大反対にあったそうです。ところがさすがに私の母の母親である祖母もまた進歩的だったようで、周囲を説得してアメリカの日本大使館に長く勤めた方の家でお世話になることになりました。母は少女の一時期を東京で過ごしたことで、田舎では到底得られないような多くの貴重な体験と知識を身につけて人生の大きな自信になったに違いないと思います。

 

その後太平洋戦争が始まり、世の中は混乱し戦況も悪化して東京空襲が始まったため、心配した両親が母を東京から呼び戻しました。結局母はその後デザイナーにはなれなかったのですが、もし戦争がなければ「森英恵」ではなくて「中村八重子」ブランドのファッションが世界を席巻していたかも知れないと、周囲からよく冗談を言われていたものです。実家に帰った後も、母はモダンガール(?)だったようで、当時戦況の悪化により国民生活は様々に規制され若い女性の服装もかすりの上着にモンペ姿が多い中で、洋服を着てさっそうと自転車に乗っていた母は当時の田舎ではかなり目立ったと思います。おかげで時々警察官に呼び止められて服装を注意されたらしいのですが、名前を言うと「あ~、中村さんところのお嬢さんかな。。気ぃつけて帰りんさい。」で終ったそうです。町会議員の祖父が警察署長と親しかったらしく、今なら官民癒着ですが当時はおおらかなものです。

 

終戦直後の昭和21年に、母は親同士が町議会で親しかった私の父親と結婚しました。12月の雪の降る中を白無垢姿の花嫁の行列に沢山の見物人が出来て、婚礼の儀式は夜が更けるまで続いたそうです。まるで時代絵巻かTVの篤姫の江戸城入りを連想しますが、実際は終戦直後の物資のない時代で準備が大変だったと祖母から聞きました。父の家も戦前は地主で色々な商売を手広くやっていたらしく、私が幼少の頃には家にまだ古びたビリヤードの台が残っていて、見よう見まねでキュー(ビリヤードの棒)を撞いているうちにテーブルの上のラシャ張りを台無しにしてしまいました。野球や卓球が盛んな当時に、ビリヤードのキューを撞いていたハスラー(?)のような小学生は他にいなかったと思います。

 

父親同士が町議会で親しかったことから母は終戦直後に嫁いで来ましたが、戦後に実施された農地改革によって地主だった両家は農地の大部分を失いました。戦後の農村社会の平等と民主化を目指して行われましたが、地主の側からすれば正当に引き継いで来た先祖伝来の土地を国に没収された上に小作農に分け与えるわけですから、個人の財産権が保証された現在の資本主義社会では到底有り得ない話です。もちろんこの政策が戦後日本の発展に寄与したことも事実ですが、その犠牲になった人々もいたわけです。

 

そんな状況で父母は多くの苦労をしたと思いますが、祖父小木曽駒三郎が残した家訓は「努力は己のためならず、常に世のため人のため。」という今の日本の政治家に聞かせたいものでしたが、それを引き継いで父は区長を母は地元の婦人会長を勤めたりして、85歳になった今でもボランティア団体などにわずかながらも寄付を続けています。

 

私の父親は重症の肺気腫から56歳でこの世を去りましたが、それがきっかけで私は医学の道に入りました。どんな家庭でも一家の主が病で倒れるのは大変なことで、母はその看病だけでなく精神的経済的な負担で本当に大変だったと思います。しかしいつの時代もやはり母は偉大で女性は強い!私の長い臨床経験からも、妻に先立たれた夫は身の回りの世話をしてくれる人がいなくなって、元気がなくなり寝込んでしまうことも多いのですが、夫に先立たれた妻は夫の世話をする必要がなくなるため、それまで家庭に縛られていた分を外に出かけたり旅行したりして元気に人生を謳歌している患者さんをよく見かけました。

 

私の母も全く同様で、1年して喪があける頃にはすっかり元気になって、女学校の同級生や知り合いと集まったり旅行したりして、海外旅行も何度かして大変に元気でした。

 

しかしその後、母親を待っていたのは厳しい痛みとの闘いの人生でした。76歳以後に全身麻酔の大きな手術を4回も受けましたが、医師の私ですら母以外にあまり聞いたことがありません。診断名は腰部脊柱管狭窄症と変形性膝関節症。第1回目の手術は腰椎椎弓切除術と膝人工関節置換術でした。(次の記事に続く)

 

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