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院長コラム

Vol.30 待合室でサンバ、オペ室でhug、クリニックがまるでブラジルです!

最近はクリニックに外国の方が数多く来院されるようになりました。一般にわが国の美容外科クリニックでは、コミュニケーションの難しさから外国人の患者さんを受け入れるところは少ないのですが、当院では私の知り合いからの紹介や口コミや患者さんからの紹介などで徐々に増えて来ました。

国籍は様々で、以前は美容外科先進国であるアメリカやヨーロッパの方が多かったのですが、その後経済の発展を反映して韓国や中国の方が増え、最近はブラジルやペルーなど南米からの方が多くなっています。特にブラジルの方は家族で来院されることが多く、待合室には賑やかにポルトガル語が飛び交い、深刻な悩み相談というよりもまるでカウンセリングを陽気に楽しんでいるようで、さすがリオのカーニバルの国です。シャイな日本人と違って感情表現も豊かで、オペ後の検診の際には “O,Doutor! Muito obrigada!!”と患者さんからいきなりhugされることもしばしばで、まさに医者冥利に尽きる(?)というところです。そんな時にはBGMをサンバやボサノバに切り替えて、私自身昨年から○○の手習いで覚え始めたポルトガル語とスペイン語を駆使して患者さんからは大うけしています。

美容外科手術も、民族による骨格や体型の違い国民性や美意識の違いから、受ける手術の種類はもちろん希望される結果も大きく異なってとても興味深いところです。

今回は、私のこのような経験をもとに世界の美容外科情勢を日本と比較しながら考えてみたいと思います。

日本では余り知られていませんが、最近の10年間で多くの国々の美容外科医療は飛躍的に進歩し世界中で美容外科人口が急増しています。ミョンドンの美容外科通りで知られる韓国の美容外科ブームは日本でも有名ですが、経済発展著しい中国の北京や上海、日本ではまだ馴染みの薄いベトナムや東南アジア諸国でも美容外科は大変な勢いで一般の人々の間に広がって来ています。日本ではリゾートとして有名なタイは、すでに日本を凌ぐ美容外科大国で、ツアーを組んで訪れるアメリカ人が最も多い国です。アメリカやヨーロッパは、もちろん世界の美容外科先進国ですが、患者数はこの10年でさらに増えてアメリカの年間の豊胸術は日本の10~15倍以上の30~40万人と言われています。(次の記事に続く)

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Vol.29 私の母はモダンガールだった!?(その4)

(前の記事の続き)戦前のモダンガールだった母親も85歳になりますが、この10年間で脊柱管狭窄症の手術を2回、膝人工関節置換術、大腸がん手術、脳梗塞など手術や入院の繰り返しでまさに満身創痍です。高齢になってから全身麻酔の手術を4回も受けてよく頑張ったものだと感心しています。

手術の朝ストレッチャー(移動ベッド)で運ばれて行く母の手を握りながら、私と姉は祈るような気持ちで見送ったものです。私もかつては岐大病院で長年研究と臨床生活を送り、沢山の患者さんのドラマ以上にドラマチックな場面を多く見て来ましたが、自分の家族のこととなると日頃はなおざりにしている神様や仏様にすがってしまうのだから我ながら身勝手なものです。中でも母が78歳で受けた手術は腰椎3椎体をチタン製のプレートとスクリューで固定する手術で7時間にも及ぶ大手術でした。患者の家族として手術が終わるのを待つのは本当に長いもので、無事終了して岐大整形外科の清水教授から丁寧な説明と「予定通り大変にいい結果です」との言葉に心から安堵したものです。3年後の大腸がんの時には、さすがに家族一同覚悟をしましたが、私の岐大医学部の先輩で腫瘍外科助教授の杉山先生に執刀して頂き、幸い転移もなく経過も良好です。

最初の手術の後、母は朝夕1時間ほど仏前でお経を唱えて写経を毎日欠かさずに続けて来ましたが、何と入院中も病室で休まずに読経と写経を続けるため主治医や看護師さんたちから大いに驚かれ感心されました。その間に写経は千巻二千巻と増え続け、ついに京都妙心寺から全国初の女性ということで表彰して頂きました。現在も三千巻を越えて記録を更新中です。写経とともに母が打ち込んでいるのが千代紙細工です。最初は脳梗塞のリハビリのつもりでしたが、勉強して工夫するうちに上達して色々な会合に招かれて講習するまでになってしまいました。こうなると本人も益々やる気が出て、立体の花や金魚の飾り物や宝石箱から始まって、仏壇に置くマッチ箱はまるで芸術品!?で、色々な方に進呈して大変喜ばれています。(当院の患者様でご希望があれば差し上げます。)

母は様々な病魔にもめげずに、お世話になった人々に感謝していますが、私自身はこうして不肖の息子や家族が皆元気でいられるのも、母が一人で病気の苦しみを一手に引き受けてくれているからだと考えています。

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Vol.28 私の母はモダンガールだった!?(その3)

(前の記事の続き)父親同士が町議会で親しかったことから母は終戦直後に嫁いで来ましたが、戦後に実施された農地改革によって地主だった両家は農地の大部分を失いました。戦後の農村社会の平等と民主化を目指して行われましたが、地主の側からすれば正当に引き継いで来た先祖伝来の土地を国に没収された上に小作農に分け与えるわけですから、個人の財産権が保証された現在の資本主義社会では到底有り得ない話です。もちろんこの政策が戦後日本の発展に寄与したことも事実ですが、その犠牲になった人々もいたわけです。

そんな状況で父母は多くの苦労をしたと思いますが、祖父小木曽駒三郎が残した家訓は「努力は己のためならず、常に世のため人のため。」という今の日本の政治家に聞かせたいものでしたが、それを引き継いで父は区長を母は地元の婦人会長を勤めたりして、85歳になった今でもボランティア団体などにわずかながらも寄付を続けています。

私の父親は重症の肺気腫から56歳でこの世を去りましたが、それがきっかけで私は医学の道に入りました。どんな家庭でも一家の主が病で倒れるのは大変なことで、母はその看病だけでなく精神的経済的な負担で本当に大変だったと思います。しかしいつの時代もやはり母は偉大で女性は強い!私の長い臨床経験からも、妻に先立たれた夫は身の回りの世話をしてくれる人がいなくなって、元気がなくなり寝込んでしまうことも多いのですが、夫に先立たれた妻は夫の世話をする必要がなくなるため、それまで家庭に縛られていた分を外に出かけたり旅行したりして元気に人生を謳歌している患者さんをよく見かけました。

私の母も全く同様で、1年して喪があける頃にはすっかり元気になって、女学校の同級生や知り合いと集まったり旅行したりして、海外旅行も何度かして大変に元気でした。

しかしその後、母親を待っていたのは厳しい痛みとの闘いの人生でした。76歳以後に全身麻酔の大きな手術を4回も受けましたが、医師の私ですら母以外にあまり聞いたことがありません。診断名は腰部脊柱管狭窄症と変形性膝関節症。第1回目の手術は腰椎椎弓切除術と膝人工関節置換術でした。(次の記事に続く)

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Vol.27 私の母はモダンガールだった!?(その2)

(前の記事の続き)昭和初期の当時は、現在と違って交通も不便で田舎は都会から遥かに遠く、若い娘が東京で一人暮しするなどとんでもないと母の東京行きは親戚中の大反対にあったそうです。ところがさすがに私の母の母親である祖母もまた進歩的だったようで、周囲を説得してアメリカの日本大使館に長く勤めた方の家でお世話になることになりました。母は少女の一時期を東京で過ごしたことで、田舎では到底得られないような多くの貴重な体験と知識を身につけて人生の大きな自信になったに違いないと思います。

その後太平洋戦争が始まり、世の中は混乱し戦況も悪化して東京空襲が始まったため、心配した両親が母を東京から呼び戻しました。結局母はその後デザイナーにはなれなかったのですが、もし戦争がなければ「森英恵」ではなくて「中村八重子」ブランドのファッションが世界を席巻していたかも知れないと、周囲からよく冗談を言われていたものです。実家に帰った後も、母はモダンガール(?)だったようで、当時戦況の悪化により国民生活は様々に規制され若い女性の服装もかすりの上着にモンペ姿が多い中で、洋服を着てさっそうと自転車に乗っていた母は当時の田舎ではかなり目立ったと思います。おかげで時々警察官に呼び止められて服装を注意されたらしいのですが、名前を言うと「あ~、中村さんところのお嬢さんかな。。気ぃつけて帰りんさい。」で終ったそうです。町会議員の祖父が警察署長と親しかったらしく、今なら官民癒着ですが当時はおおらかなものです。

終戦直後の昭和21年に、母は親同士が町議会で親しかった父親と結婚しました。12月の雪の降る中を白無垢姿の花嫁の行列に沢山の見物人が出来て、婚礼の儀式は夜が更けるまで続いたそうです。まるで時代絵巻かTVの篤姫の江戸城入りを連想しますが、実際は終戦直後の物資のない時代で準備が大変だったと祖母から聞きました。 父の家も戦前は地主で色々な商売を手広くやっていたらしく、私が幼少の頃には家にまだ古びたビリヤードの台が残っていて、見よう見まねでキュー(ビリヤードの棒)を撞いているうちにテーブルの上のラシャ張りを台無しにしてしまいました。野球や卓球が盛んな当時に、ビリヤードのキューを撞いていたハスラー(?)のような小学生は他にいなかったと思います。(次の記事に続く)

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