(前の記事の続き)こうして私の医師としての人生がスタートしましたが、物語やドラマと違って現実の医療の世界は非常に忙しくて過酷で大変です。私が入局した岐阜大学附属病院第2内科は循環器と呼吸器や腎臓が専門の病院最大の科で、心筋梗塞や狭心症、急性心不全・呼吸不全など多くの患者さんが緊急で入院されて来ます。特に研修医期間中には色々な種類の難しい病気や重症の患者さんの主治医が順番で当てられます。
当時の第2内科は、学者らしくて温厚な教授、義理と人情味に溢れた組の親分のような助教授、そして留学経験も豊富でダンディーな講師のいる特徴ある科で、その自由な雰囲気の中、私は忙しくも楽しくてとても充実した日々を過しました。今にして思えばまだ未熟ながらも純粋で熱血感溢れた青年医師(?)というところです。2年間の研修医時代に受け持った患者さんのことは印象が強く今でもハッキリと覚えていますね。
ある会社の経営者で60代の男性が、狭心症発作で入院されて心臓カテーテル検査を受けられました。心臓の筋肉に酸素を送る冠動脈という血管が動脈硬化などで狭窄して細くなると心筋が酸素不足に陥り狭心症症状が起き、閉塞してしまうと心筋梗塞になって生命の危険や後遺症が残ります。この患者さんは検査の結果、左冠動脈に90%の狭窄が2箇所発見されたため、当時主流であったバルーン拡張術(現在はステント留置術)を行なって血管を拡げることが出来ましたが、この患者さんは1日40本のヘビースモーカーでした。
喫煙は冠動脈硬化の最大の要因で当然即禁煙です。ところがこの人生経験の豊富な患者さんは、「先生、わしは若い頃に苦労して会社を興して今まで頑張って一代でここまで大きくして来ました。酒もゴルフもせず、これといった趣味もない。楽しみと言ったら仕事の合間のタバコだけです。誰に何と言われようとこれだけは辞められません。タバコを吸って心筋梗塞で死ねば本望ですよ。」と言って、当時若かった私の注意などは全く聞いてくれそうにない雰囲気でした。
私の再三の注意にも拘らず、「タバコを吸って死ねば本望」と言って禁煙されなかった狭心症の患者さんは、心臓カテーテル検査とPTCA(経皮的冠動脈形成術)を受けて無事に退院されました。
その後は胸痛も消えて外来へ通院されていましたが、その年の11月に突然救急車で運ばれて来られました。当時は携帯もなく医師は大抵黒い大きなポケベルを持っていましたが、アルバイト先の病院で当直していると早朝にポケベルが鳴って来ました。第2内科(循環器内科)ナースステーションへ電話をするとあの患者さんが救急搬送されるとのこと。狭心症や心筋梗塞が晩秋や初冬の早朝に多いのは、この時期体が寒さに慣れておらず、早朝には血管が敏感で攣縮を起こしやすいのが原因と言われています。
着いてみると患者さんは、殆ど意識がなく呼吸も微弱で非常に危険な状態でした。直ぐに救急蘇生をしながら心カテ室へ直行し、私がAMBU(人工呼吸バッグ)を押しながら心カテ検査が始まりました。結果は前回と別の部位の完全閉塞による心筋梗塞でした。冠動脈に何度も血栓溶解剤を流すと僅かの再開通が見られ、PTCAによってある程度の血流が流れるようになりました。その後昇圧剤で血圧も上がり呼吸も安定し意識も回復して来ました。
こうしてまさに九死に一生を得た患者さんが、最初に言われた言葉は「先生、そろそろタバコを止めんといかんな」でした。私は耳を疑いましたが、今回の発作が余程苦しかったのはナースカルテの「口から心臓が飛び出るくらいに苦しかった」という言葉で分かりました。結局ある程度の後遺症が残りましたが、患者さんは以後きっぱりと禁煙をされ健康にも大変気を遣われて87歳まで元気に生きられました。
亡くなられた後で奥様から私宛にお礼の手紙と立派なライターが送られて来ました。文面には「主人が、ここまで長生き出来たのはあの若い(?)先生のおかげだと口癖のように言っておりました。このライターは20年前に心筋梗塞を起こす直前主人が買ったまま使わずに記念に大切にしていた物で、自分が死んだら是非小木曽先生に渡してくれと申しておりました。」 私はタバコを吸いませんが、ライターは今も大切にしまってあります。
今回は、このコーナーで自分自身のお話をしようと思います。私は医療に携わって25年、美容医療に携わって20年です。私の母方には名古屋大学附属病院の院長になった親類がいますが、それ以外は医療とは無縁の家庭で育ったため、中学時代は外交官に、高校時代は建築家になるのが夢でした。
小さい頃から絵を描くのが好きで、部屋に閉じこもって当時人気だった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「エイトマン」などのマンガの主人公の絵を真似て描いたり、写生大会では地元の町並みや自然の風景画を描いていつも入選し県大会や全国大会まで行っていたので美術にはかなり自信がありました。また母方の祖父は大正時代に東京で本格的に絵画の勉強をした人で、孫の私がその才能を受け継いでいると皆に言われたため、私もすっかりその気になって将来は画家になろうと思ったくらいです。
高校生の時に大阪で開かれた万国博を見に行って、東芝のパビリオンを設計した黒川紀章氏に大変興味を持ちました。現在では知らない人はないくらいに多方面で有名ですが、当時は新進気鋭の愛知県出身の建築家ですでに海外でも活躍されていました。その斬新なデザイン性やアイデアに、高校生だった私は非常に感銘を受け、自分の美術の才能(?)を生かして彼のような建築家になって世界で活躍してみたいと考えるようになりました。
それが医学の道を志すことになった最大の原因は父親の病気でした。当時は現在のようなCT、MRIや気管支ファイバースコープなどの最新の医療機器もなく、日頃から咳や痰が多かった父親は重症の肺気腫と診断され、闘病生活が始まりました。家族の一人が病気になることは大変なことですが、まして一家の主が病に倒れれば精神的経済的負担は大変なものです。しかし私はB型人間で楽観的だったせいか、父親の見舞いに行くたびに主治医の先生とすっかり親しくなって弟のように可愛がってもらいました。
この36歳の呼吸器の先生は、熱血先生の典型のような人でいつも医局が自宅のような生活をしていました。休日に医局に遊びに行くと机の上には医学書や書類などが高く積まれて、机の下には所狭しと貰い物届け物などが置かれている、時にナースが入院患者のカルテを持って指示をもらいに来たり、電話が鳴って外来へ呼ばれたまま戻らないので私が帰ろうとしていると、汗だくになって来て 「残念!DOA(救急車で到着時死亡)が入って救急蘇生したが助からなかった、、」 当時の私はまるでテレビドラマを見ているようでした。凄い世界だなと感じると同時に私もこんな世界で生きてみたい、そして父親のように病気で苦しむ人々やその家族を救って少しでも役に立ちたいと考えるようになりました。今から30年以上前に抱いたこんな気持ちが現在の自分の出発点です。(次の記事に続く)
今回の患者さんは17歳の若い女性です。カウンセリングルームに入ると可愛いセーラー服姿の女子高生がお母さんと一緒に待ってみえました。目が大きくて鼻筋の通った端正な顔立ちに長いストレートヘアーが印象的です。最近の若い方には珍しくとても礼儀正しくて、わざわざ立って挨拶をされましたが、身長も170cmはゆうにありそうです。こんな美人で可愛い女子高生に一体何の悩みがあるのかな?と思ってカルテに目を通すと、相談内容が「小顔の相談」となっていました。
カウンセリングの前に緊張をほぐすために「学校は楽しいですか?将来は何をするの?好きなアーティストは?」などという雑談などを交えながらご本人のお話を聞くのですが、何と小中学校の頃から回りから「ホームベース」とか「はいり」とか言われてからかわれたそうです。幸い持ち前の明るい性格とバスケット部のキャプテンでクラスメートから慕われていてイジメなどには遭わなかったとのことですが、それでも顔の輪郭のことを言われるととても辛い思いでいつも傷ついていた自分を必死で隠していたと打ち明けられました。
実際に長い綺麗な髪の毛を上げて頂いて顔の輪郭全体を見てみると、まさに「天は二物を与えず」の通り、整った目鼻立ちを台無しにするかのように張り出したエラと頬骨がとても目立っています。顔面の骨が出ていると顔が大きく見えるばかりでなく、ゴツゴツとして骨ばったイメージを与えます。一般に日本人をはじめアジア人はヨーロッパ人よりも体格に対する頭蓋骨の比率が大きいばかりでなく下顎角(エラ)と頬骨が張り出している場合が多いのですが、折からの小顔ブームで最近はこのような相談がとても増えています。X線検査などの結果、この可愛い女子高生の手術は下顎角形成術(エラ削り)と頬骨縮小術(頬骨削り)を同時に行なうことになりました。
通常エラ削りの手術は口腔内粘膜を切開して下顎角(エラ)を切除するのですが、器具を用いても開口に限度があるために手術部分の視野が非常に狭く、その中へ特殊な器具を入れて手術を行なうために、最新の技術と長年の経験を持ってしても安全の範囲では大きく骨を切除することは中々困難です。この患者さんは下顎角がかなり大きなボリュームで張り出しているために、限界まで大きく広く骨切りするために皮膚外側からのアプローチにしました。
この術式はエラの下の皮膚の部分を2.5cmほど切開するのですが、傷痕は3ヶ月ほどで殆ど目立たなくなります。この小さな切開口を上下に移動させて骨膜下を広範囲に剥離するために、付着する筋肉群を完全に剥離出来る上、骨切りの範囲もオトガイ部(アゴの前方)から角部(エラ)までを直視下で広範囲に安全でスムースに出来ますが、慣れるまでにかなりの経験を要するため一般的には余り行なわれていません。頬骨削りは口腔内切開と耳前部頭髪部を1cm切開で頬骨を骨切りして内方へ移動する術式で、これも傷痕は殆ど分かりません。
手術当日はさすがに緊張してみえましたが、ご希望のJ-Popsがかかるオペ室に入ってからは、「これで長年の悩みが取れます。先生、宜しくお願いします。」という女子高生らしくない(偏見かな?)礼儀正しい言葉と落ち着いた態度には感心しました。手術は計画通りに進行し4時間に及ぶ大手術でしたが無事終了しました。そう言えば、たった2.5cmの小さな傷口から長さ9cm巾2cmの大きな骨の塊が出てきたのを見て、麻酔科の先生が「こんな手術は初めて拝見しました。素晴らしいですね!」と言ってくれた褒め言葉に、お世辞に弱い私は大変良い気分でしたね。
その後、患者さんは経過も順調で3ヶ月検診は今まで出来なかったアップの髪型で来られましたが、エラと頬骨の出っ張りがなくなり顔が小さくソフトな印象になっただけでなく、端正な目鼻立ちともとてもバランスが良くて173cmの長身の姿がキラキラと輝いているようでした。
その時に患者さんからお礼に(?)携帯のストラップを頂きましたが付けるのが何となく気恥ずかしくてそのままになってしまいました。何年か後で有名なファッション雑誌のページを飾る彼女を見つけた時、私自身とても嬉しい気持ちになり心の中で「頑張ってね。」とつぶやいていました。
今回の患者さんは37歳の女性で10年ほど前に他院で豊胸術を受けられましたが、残念ながら理想通りにはならなかったとのことで来院されました。カウンセリングルームには沈んだ表情の女性がお子さんと一緒に待っておられました。何か事情がありそうです。こんな時私は徹底的に時間をかけて詳しくお話を聞くことにしていますが、この方はゆうに1時間を超えました。
この女性は離婚後5年たってやっとお付き合い出来る男性と巡り合えたそうですが、「今の自分の不自然な胸を見られる時が来るのが恐怖です。本当にキレイで自然な胸になるのでしょうか」と不安そうに訴えられました。診察してみるとこの方の豊胸術は生理食塩水バッグを大胸筋下に入れる方法で、以前わが国では一般的に行なわれていた方法です。手技が比較的簡単なため短時間で終わりましたが、大胸筋下を広範囲に剥離するために術後の痛みが強く、3ヶ月間の痛みを伴うマッサージが大変でした。もちろんある程度良好な結果も得られましたが、筋肉の下にバッグを入れるため固く張った感触になることと胸や腕に力を入れるとバッグが圧迫されて不自然に変形するなどの欠点も多くありました。
この方はマッサージの過程でスペースが狭くなってバッグが上に上がってしまったため、バストの上部が膨らんで元々の乳腺部分が下がって垂れた状態になっていました。感触も非常に固くて最悪です。この外見と感触ではこの女性が悩まれるのも無理はありません。
今回の悩める37歳の女性は、10数年前に入れた生理食塩水バッグを取り出して代わりに乳腺下に最新のコヒーシブシリコンバッグを入れることにしました。美容医療に携わっていていつも感じるのは、女性のバストに対する切実な思いと強いこだわりです。女性が豊胸術の結果に求めるのは、豊かで美しい外観はもちろん、柔らかな感触や自然に流れる動きなど非常に繊細です。特にこの女性は再婚を機に手術を決心されたようで、相手の男性のためにも私の責任は重大です。カウンセリング時の「今の自分の不自然な胸を見られるのが恐怖です。キレイで自然な胸になるのでしょうか」という不安そうな言葉が私の脳裏に残りました。
手術は新しい傷を増やさないように前回と同じ腋の下を3~4cm切開し、大胸筋と乳腺の間を丁寧に剥離して新しいスペースを作成した後、大胸筋下の生理食塩水バッグを取り出しましたが、再手術のため側胸部の癒着が強く剥離は中々大変です。その後に大きさが自由に変えられるテストバッグを挿入し、患者さんに実際に見て頂きながら新しいバッグの大きさを決めて行きます。取り出したバッグの大きさは175ccでしたが、一回り大きくしたいという患者さんの希望で新しいバッグはスーパーアナトミカル型コヒーシブシリコン250gに決定しました。実際にバッグが入ったバストを見た時の患者さんの喜びと安堵の混じった表情は今でも忘れられませんね。
入れ替えの分だけ腫れは少々長かったものの術後の経過は大変に良好で、1ヶ月後検診の時には見違えるような素敵なバストになっていて私も一安心しました。当院ではバスト術後患者さんに年1回の超音波検査をお勧めしていますが、1年後に来られた時に男性の方が同伴されていたので、「めでたくご結婚されましたか?」と尋ねるとうなずきながら「主人が余りにも私のバストのことを美乳だといってほめるものですから、つい本当のことを言ってしまいました。」とのことでした。
「いつまでもお幸せに。。。。。」と言って、お二人を見送りました。